メモ XIII 逆ユートピア幻想

1871年に設立された(子供会みたいな^^;)フレーベル教会というのがあったそうな。アリョーシャと同じく子供好きのドストエフスキーは、小学生たちの遠足に参加するのが楽しみだった。同伴の教師たちが自然についての知識などを教え、最後にダンスや歌や様々な遊戯を楽しんだ。しかし突き詰めて考えると、リーダーの指導により整然と展開するプログラムを見て、ドストエフスキーはある危惧を覚えたのではないか?…つまり「大審問官」ね↓
「わしらは彼ら人間たちが無力であり、哀れな子供同然だということ、だが子供の幸福こそ何よりも甘美なものであることを教えてやるのだ。…彼らはわしらの怒りにわなわなと身を震わせ、知力も大胆さも失って、その目は女子供のように涙もろくなろう。だがわしらの合図ひとつで、いとも簡単に明るさと笑いを取り戻し、幸福そうに子供らしい歌に興ずるようにもなる。むろん、わしらは彼らに労働を強いる、だがその余暇には、子供らしい歌と合唱、無邪気な踊りを与え、彼らの生活を子供の遊びのように楽しくしてやるのだ」…どっかのマスゲームみたい…他人を笑ってはいけない★身近なところでも、秩序を乱す異端は排除されるもんね(>_<)
神を否定しても、人類を愛することが出来るか?ドストエフスキーは、当時の社会悪をについてばかりでなく、社会主義諸国の未来から現代企業社会への批判にまで通ずる予言的な逆ユートピア図を展開して見せた…と書いてある。


物語の舞台は、スコトプリゴニエフスク(家畜追込町)…「羊たちの出入りする門」であるイエスを通ってこの町へ入るものは救われる。門を通らずに侵入するものは、羊を盗み、殺し、滅ぼすだけのためにやってくる。「大審問官」の作者であるイワンは、はたして入場資格を得ることが出来るのか?…アル中から来る狂気を「異常なまでの意志力」によって克服し、カチュリーナとの愛憎の葛藤をを繰り広げるのは、続編のお楽しみだったのだそうだ。