メモ XII 実現しなかった奇跡

  • 自己を過信して誘惑に身を委ねてはならない

カラマーゾフ的な力」の上にも「「神の御霊」が働いているか?
マタイ伝「荒野の誘惑」…イエスは「神の神(しん)に従い人間として」悪魔の誘惑に臨んだ。人間もイエスに習って、奇跡など必要としないで神とともに止まるだろうと、期待した。
「ところがおまえは、人間は神よりもむしろ奇跡を求めるものであり、奇跡を否定するや否や、ただちに神をも否定するようになることを知らなかった。こうして、奇跡なしではいられない人間は、今度はもう自分で新しい奇跡を次々と創り出して、祈祷師のまやかしや巫女の妖術にまで頭を下げるようになる」とは大審問官のせりふ→神の創造への異議申し立てるイワン。

  • 一本の葱

ゾシマ長老の死後腐敗に関して、アリョーシャはショックを受ける。死という自然現象への不満。死は当然神の思し召しによるものだろうから、これは神への不満ということにならざるを得ない
最初に「アリョーシャはリアリスト」と強調されたように、決して狂信的ではないはずなのに、何か理不尽さを覚えて暗澹とする。
ラキーチンに誘われるままグルーシェンカのところへ。そこで聞いた民話風寓話。江川さんも「蜘蛛の糸みたい」とおっしゃっている。意地悪で業突張り婆さんが地獄に墜ちたとき、生涯にただ一度飢えた乞食女に一本の葱を恵んでやったことを思い出した守護天使が、神様に救済をお願いする。で、葱に捉まって天国に引き上げられるんだけど、あとは龍之介の「蜘蛛の糸」と同じ結果。
これ、どんなに邪悪な人もなにがしか「一本の葱」を持っているって解釈も出来るのね?つまり、「一粒の麦、もし死なずんば…」に繋がる。お互いを理解して「邪悪さ」を消し去った「姉弟


わたしの「一本の葱or蜘蛛の糸」はなんだろう?葱婆さんや犍陀多よりマシかも…と思ってるあいだは、茹ですぎた素麺一本おろしてくれないだろ〜なぁ(__;)

  • ガラリアのカナ

「愛することが出来ない苦悩」は「地獄」の別名。ドストエフスキーは、抽象的な神の存在よりも、人間と人間の具体的な愛の形を尊重していたんだって。婚礼の宴で、キリストは人々の悲しみではなく、喜びを訪れて「最初の奇跡」をあらわした。パイーシイ神父の聖書の朗読を聴きながら、うとうとしたアリョーシャは、夢のなかでゾシマ長老に出会う。
「楽しもうではないか。新しい酒を汲もう、新しい、大いなる喜びの酒を汲もう。見なさい、なんと大勢の客ではないか!…どうして驚いた顔でわしを見るのじゃ?わしはな、一本の葱を恵んだために、ここに来ておるのじゃ。ここにおる人はおおかたが一本の葱を、ほんの小さな一本の葱を恵んだ人たちじゃぞ。ときに仕事のほうはどうじゃな?おまえも、おとなしい、しずかな少年のおまえも、きょうは飢えた女に一本の葱を恵むことができたではないか。はじめるがよい。いとしい息子よ、おとなしい息子よ、自分の仕事をはじめるがよい!」