メモ XI 心の広さと大きさと

先日TVで、金田一さんが「広いと大きい」について、何か言ってたような記憶が…
♪う〜みは ひろいな おおきいな〜♪

  • 心の広さ

高潔と下劣、美と汚辱、マドンナとソドム、カチュリーナとグルーシェンカ…相反する両極の心を持つドミトリー。
「おれはやみくもに突き進んでいるが、自分が悪臭と汚辱のなかにはまり込んだのか、それとも光明と歓喜の世界に踏み入ったのか、謎なんだ。深い、底なしの堕落の淵に惑溺するようなときには、ケレースと人間についての(シラーの)詩を誦んだものなんだ。それでおれが正道に返されたかだって?そんなことは一度もなかったよ!なぜっておれはカラマーゾフだからだ。なぜって、どうせ奈落の底に落ちるのなら、いっそひと思いに、頭から真っ逆さまに飛び込んでやれと思うからだし、ほかでもないそういう汚辱にまみれた形で墜ちていくことに満足さえ覚えて、自分じゃそれを美とも感じるからなんだ」
ケレースは、農耕と豊饒の女神。冥界へ娘プロセルピナ探しに行く。シラーの詩では、ケレースが狩猟民であった人間に農耕を教え、ゼウスへの捧げ者には、血にまみれた生贄よりも、農耕の実りがふさわしいことを説いて、人間の団結をもたらしたテーマが強調されている(聖書では、狩猟者のアベルを愛でたので、カインが妬んだんじゃなかったっけ?)
ケレースはギリシャ神話で「デーメテール」…ドミトリーという名の起源。自分の冠から生きた一粒の麦を大地に植える場面もある→聖書の「一粒の種もし死なずんば…」と呼応している。野蛮な人間の汚辱に満ちた生活を見て「神は、苦しませるために人間を創ったのか?」と嘆く場面もあるそうな。
ありとあらゆる矛盾を飲み込んで、希望と絶望を振り子のように行ったり来たり。キリスト教ギリシャローマ神話も一緒くた。二つの深淵を併せ持つロシア的広大な心が、ドミトリーにはあるだって\(◎o◎)/!

  • 心の大きさ

ヴェリゴドゥーシエ:大きな心「不幸、悲しみ、他者から加えられる無念さ、いじめの行為などに忍耐強く耐え、祖国ないし隣人のためにおのれの生命、時間、名を犠牲に供する人の好意」
反対語は「マロドゥーシエ(小さな心、臆病者)」←スメちゃん仕様(^◇^;)
ドストエフスキーは、「ヴェリゴドーシエ」という言葉をこよなく愛していた。アリョーシャが、石の傍で(十二人の)少年たちへの、別れの演説に効果的に使われている。心の大きなイリューシャ、そしてお互い同士を心に封じ込めるように。そうすることによって一人ひとりが、より大きな心を持つことが出来る…十三年後にアリョーシャが率いることになるであろう、少年たちの共同体への予感。