メモ V 薔薇と騎士

カトリック嫌いのドストエフスキーが、ゾシマ長老をカトリックと関係づけようと描写している節があるのはなぜか?…薔薇の谷間、嘆きの聖母、象牙の十字架etc.(ロシア正教会ではイコンのみがが尊崇され、彫刻塑像類はご禁制)「大審問官」伝説はローマ・カトリックを念頭に置かれているし、イワンの科白にも「イエスズ会の連中の中だって、せめて一人ぐらいは、偉大な悲哀に悩み、人類を愛する受難者がいてもおかしくはないんじゃなかろうか?せめて一人ぐらいは、一人ぐらいは、ぼくの老審問官のような人間がいたって良さそうなものじゃないか」とある。
江川さんは、ゾシマ長老を聖フランチェスコに擬えているのでは?とおっしゃる。
・ゾシマの若くして亡くなった兄が、小鳥に赦しを乞う場面→フランチェスコは、鳥や魚に説教した。
・ゾシマ、フランチェスコともに、若い頃放縦な生活を送っていた。
・「神のすべての創造物を、その全体をも、一粒一物をも愛されよ。一枚の木の葉、一条の光をも愛されよ。動物を愛し、植物を愛し、一切の物を愛されよ。一切の物を愛するとき、それらの物のうちにひそむ神の機密を会得出来ようbyゾシマ」
・死に臨んでの言説もよく似ている(長いから書くのが面倒^^;;;)
・マクシーモフに「あの方は完全な騎士でいらっしゃる」と言わせている(フランチェスコは伝道の使命をおびた放浪の騎士)
以上で「清貧の、完全なる騎士」としてのアッシジのフランチェスコ像は、ゾシマ長老の愛弟子アリョーシャの、その後の生涯に反映されるはずであったかもしれない(との予想)